人の中にある「善」と「悪」とは

心には「善」と「悪」が共存できる魂のアクセスポイント

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人の中にある「善」と「悪」とは

心には「善」と「悪」があります。善と悪の闘いは「善」と「悪」が調和されて一つの生命エネルギーとなってあなたに力を与えているのです。

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ドリームキラー

人の心には「善」と「悪」が共存できる次元心は「善」と「悪」が共存しています
人間の本性は「善」である「性善説」は儒教の教えです。倫理、道徳的に人が生まれ持つ性質は「善」であると孟子が唱えました。孟子の時代、人の性について様々な論議がなされていました。性とは持って生まれた人の性質、備わっている心となります。人の心について色々な議論が行われていたのです。
「性には善も悪もない」とする告子の性無記説。
「性が善である人もいるが、悪である人もいる」とする説や「人の中で善悪が入り交じっている」と諸説が一般的な考えに定着しているなかで孔子は「性善説」を唱えたのです。
孔子とは中国は紀元前500年代の思想家、哲学者で儒家の創始です。時代は実力主義が横行していた戦国の世、身分秩序は解体され世の中が乱れていたころ、周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げました。3500人の弟子を率いて諸子百家の一家をなしました。孔子と弟子たちの語録は『論語』として普及します。
秩序が乱れ平和が失われ、人々が殺し合う時代に孔子は「性は善であるべき」の信念を貫いたのでしょう。そして、時代を統治する王である王道はどんな王でも道徳的統治、徳治に基づく王道政治が行えると説いたのです。世が覇道により乱世となることに頂点に君臨する王への説法を説いたのでしょう。

現代の日本でも孔子が説いた「性善説」に基づいた考えは根強く「人を信用する」心は「性善説」を前提としています。ショッピングセンターが無警戒に商品を展示するのも「性善説」を前提としているからです。人の物を盗むのは道徳的にいけない事であるから「盗まないであろう」性善説により運営されているのです。しかし、現実の社会ではショッピングセンターでは万引きに悩まさています。しかし、それでも性善説は否定されることはありません。

人が人を信頼できなければ争いが絶えることはないでしょう。何も信用できない世界で生きていくことは困難でしかないことも事実です。だから「性善説」は否定されることはありません。しかし、古来より人の心の中にある「善」と「悪」は議論されながらも明確な回答は出せないでいます。それは、性は持って生まれた性質と考える傾向がより強くあるからですが、その方が権力者や聖職者には有意な世界の構築ができるからです。カリスマを作り上げることが容易にできるのも想定外を作り上げることも「性善説」を訴えることで簡単に答へと導くことが出来るものです。
個人が自分の中にある善でもなければ悪でもない魂の本質を知ることを性善説は阻んでいるのです。魂はどんな色にも染めることができます。そして、染めるのは魂の持ち主でなければならないことに気がつかれたくないのです。誰もが心の本質を知れば無限の可能性を発揮することができる魂にエネルギーを与えることができるのです。

人の心、魂の本質とは中性です。生まれた瞬間、人は「善」でも「悪」でもなくて中世の魂から始まる。成長過程で様々な影響を受けることで善と悪への考え方が定着することで人の性質は決まってくるものなのです。そして、生まれながらの悪人や善人はいないのです。
絶対善と絶対悪も人の心には宿りません。なぜなら私たちの住む次元は「善」と「悪」が交差するからです。二つは表裏であり、決して交わることが無いエネルギーです。絶対善は天使の次元にしか存在せず、絶対悪は悪魔の次元にしか存在致しません。双方のエネルギーが交差する私たちの次元だからぶつかり合い争いが起こることもあります。また、分離して平和が訪れることもあるのです。交わることが無いエネルギーが交差することにより摩擦が生じ心が歪むこともあれば、暖かくなることもあるのです。
あなた自身が心に抱く「善」と「悪」は絶対ではありません。変化を有する善と悪となります。だから人は変わることも変えることもできるのです。

心は生きている過程で創られていきますので生まれ持つ性質で決まることはありません。人の心は天使のエネルギーと悪魔のエネルギーを共有できるのです。あなたが今、望むことがあればどちらかのエネルギーを高めていくことこで望みを手中にすることも不可能とは言えないことになるでしょう。