あなたの心にある愛に正直に生きること

あなたの心にある愛に正直に生きることができれば人生はとても楽しくて幸せに包まれていくことでしょう

あなたが愛する人の愛を引き寄せるために

自分を愛する様に相手を愛することで愛は一つになっていきます

愛の魔術初期のキリスト教、新約聖書の著者の一人でもあるパウロは対神徳として信仰、希望、愛を掲げ「そのうち最も大いなるは愛なり」「山を移すほどの大いなる信仰ありとも、愛なくば数うるに足らず」「愛を追い求めよ」と残しました。そんなパウロも元々はユダヤ教の熱狂的な信者でキリスト教を迫害する立場にありました。そんなパウロが「サウロ(パウロ)の回心」によりキリスト教に殉じることができたのはキリストからの制裁とキリスト教徒による慈愛でありました。キリスト教での慈愛は純粋な愛、永遠の愛となります。
また、イエス・キリストは言いう「汝、自分を愛するように隣人を愛せよ」
キリストの意思が後世に受け継がれることがあれば、世の中に争いはなくなることでしょう。
愛とはそれほどに人を優しくも暖かく包むものです。しかし、パウロがキリストから制裁を下された様に愛は、苦しみの中から見出されるものでもあるのかもしれません。これは恋愛にも当てはめることができる愛を感じ取る1つの考え方になるのでしょう。

愛が満たされないとき、あなたは自分を愛することができていますか?愛が満たされていない心は暗闇を彷徨う旅人の様なもの。砂漠でオアシスを求めるがごとく、喉の渇きは自分を苦しめてしまう。そんな状況では誰でも自分を愛することなどできず傷つけてしまうものなのでしょう。
だから、争いは起こる、争ってでも愛を奪う歪んでしまった心を創り上げてしまう。愛を手にすることに争いは避けられないことかもしれません。それは、キリストがパウロに制裁を与えたように、苦しみを経験しなければ愛は分からないことにつながっていくからなのでしょう。あなたが愛を求め傷つき、苦しんでいるとしたら、それは愛を手にする1段階手前にいるのかもしれまません。そこであなたが向き合うのは愛を求める相手である前に、まずは自分の心でなくてならないのかもしれないのです。
「汝、自分を愛するように隣人を愛せよ」とキリストは自分を愛することを決して否定はしていません。自分を愛することができる心で隣人を愛することができれば、愛は純粋となっていくのです。それは、自分を愛せない人は他人を愛することができないと説いているのでしょう。人を愛して満たされない心には悲しみや苦しみとなり自身の心に葛藤が起こるものです。様々な思いが争いっています。そして、争いから導き出す答えがどんな答えであっても未来にある愛の形は決まっていくものです。
傷つき、苦しんでいる心には愛の力も失われます。現実だけを見て変えていきたいと思う気持ちが増大して争いの心だけが増長してしまう。しかし、見えることを変える前に心の愛を変えることができたなら見えるものは必然に変わっていくのです。それが愛を高める愛の魔術で得ることができる愛の力でもあります。愛を成就へと向かわせるために心の中に争いがあるとするならば、その争いは物質社会であなたを苦しめている現実だけしか見ることができない偏りから心の葛藤が始まるもので、自分の愛を置き去りにしてしまっているときでもあります。そんなとき、大切になってくるのは「自分を愛する様に相手を愛することで愛は一つになっていきます」なのです。

当サイトの魔術は現実で求める愛を引き寄せると同時に、あなたの愛の力を高めていきます。自分を愛せる心を創造させていく意志の力を高めていく働きも誘発させていきます。

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心にある愛に正直に生きること

自分の心に正直に生きることはある意味、とても怖いことかもしれません。自分に正直に生きたいと思っても嘘をつきながら生きている人の方が圧倒的に多いのもやっぱり正直に生きることが怖いからです。愛はあなたの正直な気持ちの現れでもあります。愛を求めることは、人を好きになれば当然に芽生える感情です。大好きな人の愛を感じたい。愛されたいと思うことも自分や相手の立場を考えたとき心をときに苦しめてしまうこともあります。

愛は暖かくて、優しい感情であるはずなのに心を苦しませてしまうことで人を愛せなくなることや憎んでしまうことだってあるでしょう。それもまた自分に嘘をついて生きているからです。「好き」と言いたい自分に言わない嘘をついているのですね。

心にある愛とは、一体どんなものなのでしょう。愛と恋の最大の違いは、恋は相手を好きになり好意を抱くことで、愛は大好きな相手を「包みたい」そして「包まれたい」と思うことです。

「包む」とはあなたの正直な気持ちでしょうか。実はそれも嘘の感情なのです。包まれたい思いは包むことと勘違いされがちになります。相手の愛に包まれていないことを感じると、自分の愛で包んで行こうと思う気持ちが相手を束縛する行為に及んでしまいます。また、自分の思うようにならないときは暴力に訴えることや強制的に愛を掴もうとしてしまう行動に出てしまうこともあります。束縛、強制、暴力では愛に包まれることはありません。そして、包んでいくこともできないのです。あなたの愛が大きければ大きいほど、相手に分かってもらいたいと思う心は激しくなって自分を抑えきれない状態にもなってしまうことがあるかもしれません。自分を抑えることが出来なければ相手の愛は離れる一方になるものです。
愛とは自分を抑制していくところから育っていくものなのでしょう。そして、相手が、あなたの愛を認め、受け入れが始まったとき、あなたの愛は相手の愛に包まれていく。愛に包まれた愛は幸せと幸福を得ていくのです。そして、やっと、あなたは自分に正直な生き方ができるものなのです。
大好きな人に嫌われたいですか?
愛する人に暴力をふるいたいですか?
相手が嫌がるほどに束縛したいですか?
大好きな人の涙を見たいですか?
好きな人の悲鳴を聞きながら奪いたいですか?
そんなことをして得ることができるのは、憎悪の心と抜け殻の肉体だけです。そこに愛を感じることもなく、愛の欠片もないものです。
それが、本当にあなたが求めていたものですか?
それが本当に自分の姿だと思いますか?

自分に正直に生きることは相手の幸せを願い、その幸せを共に共有していくことでではないですか?

そうなのです。相手に好意を抱いてもらいたい「恋」の思いが「愛を」歪めているのです。愛する形が嘘になってしまうのですね。本当のあなたは好きな相手に嫌われたくないのです。

自分を抑制できないと、本当の自分を見失ってしまうもの。自分を見失えば、正直な生き方は出来ません。愛の成就は自分を抑制するところから始まるもので、本当の自分で正直に生きていくことができることから愛は成就へと導かれ幸せを掴んでいくことも愛を感じていくこともできるものです。

ストーカーやDVなどは自分に正直に生きていないのだから愛を得ることは出来ません。あなたが本当に愛を求めるならば、自分を抑制させる力を高め心に抱く思いをプラスへと変えていくことを自分に求めていくことも必要となっていくでしょう。

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